乗車日記

自転車ときのこ

 補給戦 読了

30年戦争から二次大戦のノルマンディ上陸作戦までの補給について定量的に検討した論考。アマゾンに勧められるままに購入した。ネットの本屋は知っているものしか購入でず、意外性に欠けると過小評価していたが、そうでもないようだ。
 一次大戦より前には補給はほぼすべて食料であり、ほぼ略奪に頼っていたとの指摘。1万人を1日食わせるのに一人2ポンド(1キログラム弱)のパンを消費するとして、9トン程度の補給でよかった。しかし、実際のところ本国からの輸送による補給というのは主ではなく、現地における略奪に頼っていた。それも移動している場合のみ略奪による調達が可能ということを定量的に明らかにしている。人口密度が一平方マイル45人の場合、常一日2ポンド(900g)のパンを現地の人が消費するとすると、6か月分の食糧を蓄えているとして、一平方マイル当たり900g/人x45人x30日x6か月=約7.3トンの食糧が備蓄されている。一日10マイル前進して幅10マイルの領域から食料を調達するとすると、一日の前進領域に備蓄されている食料は7.3X10x10=730トン。よって10万人の軍であっても、移動している限りは移動領域の備蓄食料の10%程度を略奪するだけ(それでもひどいが)なので、なんとかなる。しかし攻城戦等で停止すると10日ほどでその領域の食糧を食べつくすことになり、途端に食糧難に襲われる。補給に関する抽象的な議論はいろいろ見たことがあるが、このような定量的分析は初めて見た。自分は日ごろ、数量を言わなければどんなことも多少はあり得るので、定量分析こそが重要だと思っているが、それにぴったりはまる意見で大変納得できた。
 また、略奪で何とかなったのは、一次大戦に至るまでは弾薬の消費は微々たるもので、最初に背嚢に入れて持って行った弾薬のみで足りていたので補給の対象は食糧のみであったことに起因するとの指摘。一次大戦に至ってその状況が激変する。弾薬の消費が高まり、補給の9割は弾薬・燃料となった。ここに至って現地調達は不可能になり、戦力維持のために本国からの補給が不可欠になった。一次大戦の塹壕戦は、結局のところ、移動する軍隊に一万人当たり100トンといった補給を行うことが不可能になったので、固定した位置において鉄道によって補給されることによってのみ戦力が維持できたことに起因するとの指摘。
 二次大戦に至ってトラックによる補給が可能になったが、独ソ戦においてはドイツの自動車産業の生産力の制限により、機甲師団や自動車化師団にのみトラック補給が供給されることになり、馬車補給に頼る歩兵師団との格差が作戦の大きな制約となった。またロンメルのアフリカ軍団についての考察も興味深い。具体的な数量を見ると、従来制限要因とされていた、イタリアからリビアへの海上輸送は9割方到達しており、マルタ島は大きな問題ではなかった。むしろトリポリからエジプト国境に至る1000マイルの陸上輸送経路が制限要因になっており、この距離はポーランド国境からモスクワまで600マイルを大幅に超える。これを考えると、総統の言うように北アフリカではリビアの限定的防衛に徹するべきだったとの指摘。
 筆者はヘブライ大学の教授であるが、ヒトラーの戦略についても極めて現実的に評価・分析を行い、教訓を引き出そうとしている点が興味深い。絶対神聖や絶対悪を設定して思考停止に陥るのとは異なる力を感じる。
 また、Dデイ以降の連合軍の補給体制が2年間もかけて詳細に検討されてものにもかかわらず、実行に至って現実との齟齬を生じ、細部まで計画に従おうとしたあまり即応性に欠ける結果になったという指摘も興味深い。未来は少なくとも人間にとっては不確定であるので、詳細な計画に頼るよりもどのような事態でも臨機応変に対応できる能力こそが重要という指摘は未知の現象を研究する者として大変納得できる意見である。また、アフリカ作戦では補給を無視したロンメルが厳しく批判されているのに対して、オーバーロード作戦では補給計画を無視したパットンが評価されているのは興味深い。
 そのほかにも、ナポレオンの対ロシア作戦は従来の印象に反して、かなり補給を考慮したものであったこと。(8000トン分の馬車、40万人×24日分の食料など)にもかかわらずポーランド国境付近でロシア軍を補足するのに失敗したため、補給計画に破綻をきたしたこと。そしてスモレンスクからモスクワへ進撃したことは、モスクワ付近の人口密度が高く、人口希薄な白ロシアと比較して十分な現地調達が期待できたためであり、決して無謀な行為ではなかった。モスクワ近辺での補給の困難は統率の乱れにより、見境ない略奪に至って住人が逃げてしまったことに起因すること。実際、鬼の規律で有名であったダブー師団や近衛師団などは補給に支障をきたしていなかったことなどの指摘は、目からうろこが落ちるような印象を受けた。むき出しの無秩序な暴力よりも、制御された暴力のほうが有効ということだ。まあ言われてみれば当たり前か。
 筆者はさらに、クラウゼビッツをレスペクトしつつも、主権国家同士の政治目的達成のための戦争という概念を厳しく批判しており、それはクラウゼビッツが期待した理想にすぎないという指摘も行っている。そのような理想というか幻想にばかりとらわれていると、戦争を制御できなくなって無秩序な拡大につながってしまうということらしい。クラウゼビッツの時代にはフランス革命により国民国家が立ち上がりつつあって、その理想に燃えていた時代であって、非正規戦争はスペインのゲリラ戦ぐらいだったのでそれは仕方がない気がするが、現代の状況を見るにその指摘はうなずける。そのあたりの議論は1990年出版のTransformation of Warsという本にまとめられているらしい。邦訳は出ていないということだがぜひ読んでみたい。