乗車日記

自転車ときのこ

完全言語の探求 読了

バベルの塔の建設が神の怒りに触れて言葉がばらばらになる以前、人間はひとつの言葉「アダムの言語」を話しており、すべての人が分かり合えた。そのような夢を追い続けてきた西洋人たちの思想をローマ世界崩壊後から近・現代に至るまで様々な側面から考察した書。
 その歴史は一言で言ってしまえば、神秘の奥深くにあるはずと信じられててきた理想あるいは希望が、理性によって世界が照らされてゆくいくにつれて、実は存在しないことが顕になってくるという、悲しい過程といえる。ある意味、ニュータイプもそのような幻想のひとつの形態かもしれない。
 完全言語あるいは普遍言語といっても幾つかの焦点があり、A. バベル以前の共通の祖語、B. 物事の本質が直接理解できる理想的な言語、C.誰にでも理解できる普遍的な文法、D. 哲学的な人工言語の設計といった異なる考え方がある。実は普遍といってもヨーロッパ人の考える普遍であり、この本はそもそもヨーロッパ思想史である。そして、バベルの塔やアダムの林檎のエピソードにこれほどまでに執着するということから、いまさらながらにキリスト教が与えた影響の大きさを実感できる。また延々と戦争の続くヨーロッパ諸国だからこそ、すべての人が分かり合える世界という理想が追い求められたのであり、共通のコミュニケーション手段のあったローマ帝国時代やあるいは中華帝国ではこのような思想に存在意義はなかっただろう。
 当初はヘブライ語やカバラーの技法やエジプトのヒエログリフ、はては漢字といった自分たちにいまだ理解できていないもののなかに希望あるいは理想を見ていたが、徐々にその中には完全言語などないことが判明してくる。また、表音文字しか知らないヨーロッパ人には、ヒエログリフや漢字は象形文字という観点から物事の本質を直接反映しているのではないかという理想を見出す。それも中身が不明なゆえに、自分の欲しい物をその中に見てしまう。ヘブライ語やカバラーも同様。ヘブライ語にいたっては、イギリスのインド進出の結果、サンスクリットとヨーロッパ言語の共通性が見出され、インド・ヨーロッパ語という概念が発明されることにより、完全にその神秘性を失い、逆に貶められることにもなる。
 どうも過去を探っても何も得られないと分かってきたあたりから、世界を完璧に記述できる言語を作り出そうという努力も始まる。諸概念や存在を分類し、カテゴリー付けして系統だった名前をつけることで、自然言語の混乱から逃れ、普遍的に世界中の人が使える言葉を作り出そうとする。これはイデア論に影響を受けている形の思考であり、多層的な関係性を持っている物事を一つの系統樹で表そうとする試みは結局のところどれも破綻してしまう、しかしその中から、言葉が表す具体的な中身よりも、その関係性を記述することに特化しようとする試みが生まれ、これは後の計算機の言語へとつながっていく。
 また、国民国家の立ち上がりとともに、言語の分裂に肯定的な考えも出てくるのが面白い。国民の団結を高めるのに有効という理由で。あるいは多様性こそが様々な考えが生まれる源泉ということで。その結果、自然言語の分裂はよしとしつつ、国をまたいだコミュニケーション専用の補助言語というものが構想されるようになり、ラテン語の使用なども検討されたが、もっとも成功したものはエスペラントということだ。成功の理由は自然言語をあまりいじらずに、文法や語尾変化などの規則性を整えて簡略化したので、言葉の感覚がだいたいのヨーロッパ人に理解できるようになっている点らしい。といっても自分は宮沢賢治の中でしか見たことがないが。
 後、面白かったエピソードは宇宙人と交信するための言語や、ボリビアで話されているというアイマラ語の話。前者は数学を共通点としつつ形式的な関係性のみを通じて宇宙人を教育してコミュニケーションを成立させるという話。後者のアイマラ語は真/偽という二価論理ではなく、真、偽と中間という三価論理に基づいて言語体系が出来ているそうで、どのような思想でも容易にアイマラ語に変換できるそうだ。しかし逆は難しいらしい。これを読んで以前、三値論理プロセッサというものを情報学の先生が研究していたのを思い出した。
 タイトルを見たときはもう少し広範囲の思想史と期待したが、そもそもの構想がヨーロッパの過去を通して未来につなげて行きたいというものなので仕方がない。個人的には物事の本質を直接示すという点では真言を思い出し、普遍的記述方法の設計という点ではハングルを思い出してしまった。このあたりも含めて系統的な比較をしてくれている本はないだろうか。それはともかく、原著の出版は1993年だが、そこから20年がたちヨーロッパ共同体がさらなる一歩を踏み出さなければならない状況に来ている今、ヨーロッパにおける国際補助言語はもっと探求されてよいのではないだろうか。欧州議会はすべての言語を認めているので、やたらと翻訳しなければならず、実務上とても大変だと聞く。ほかの世界ならいわゆる簡略化した英語でもよいのだろうが、ヨーロッパ共同体ではふさわしくない気がする。昨年末に日本で文庫版が出た本であるが、むしろこの時期にもう一度ヨーロッパで読まれるべき本ではないかと思う。