乗車日記

自転車ときのこ

ゲーデル不完全性発見への道 読了

チューリングの聖堂の余波で十何年ぶりに数学の本を真剣に読んだ。IY氏に不完全性定理の原論文を解説した本を紹介してもらったが、自分の基礎知識で原論文に挑むのは無謀かと思い、論理学の基礎から書いてある本にした。
 まずは構文解析で証明を行うアルゴリズムが圧巻。これを読む前はゲーデル数は文の単なるコード化かと誤解していたが、コード化した上で数値アルゴリズムを適用すると文が証明可能かどうかが機械的に判定できるというのが真の意義。その方法が、公理と推論規則を再帰的に使って正しいことを書いた文をひたすら展開していき、その中に対象文があるかどうかを見つけるというものであることが目から鱗だ。普通は逆に対象文から公理へとたどっていくアルゴリズムを考えてしまう。計算機が出来る前にこのような思考プロセスを行うとは凄いものです。というか、ここからチューリングを経て計算機が出来たのですが。。。ただ、プログラミングを知っている現代人にとっては、この説明から入ってもらった方がわかりやすい気もする。
 しかし最大の成果は、矛盾の元である自己言及には対象レベルとメタレベルの意図的な混同があるということを知ったこと。証明アルゴリズムにそのアルゴリズム自身をコード化した数値を入れると判定不能になってしまい、これは矛盾のない理論体系の中には正しいことを証明できないし、かつ間違っていることも証明できない、すなわち不完全な文が存在することを意味する。これは相似な例で言うと、「自分は嘘しか言わない」という文に似ている。この文中の「自分」というシンボルと、これを語っている“自分”は本来別次元のものなのに同一視した結果、これによって思考の主体である”自分”が書いてある文章に影響を受けて、「嘘つき」になってしまい、矛盾が生じる。
 ここからは自分の雑感を含む。人間の脳の機能が両者を同じものとして扱うように出来ているのでこれは仕方がない。そもそも、事物と言葉を同一視するシンボル化こそが人間の思考力の源泉であるので、これを禁じては何も残らないと思う。すると自己言及を禁じればよいということになるが、自分については一切語らない人間というのはどんなものなのだろうか。

追記:そういえば不立文字というのがあった。もしかしたら、シンボル化をやめるというのも出来るのかも。

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