乗車日記

自転車ときのこ

カント「純粋理性批判」入門 読了

哲学好きな人に人工知能の最近の方向性である身体性について話していたところ、カントと似ているというようなことを言われてました。いつもはすぐに、そのものにとりつくところですが、今回は入門編から。

入門編で理解したと思っているところでは、「もの自体」を直接関知することはできず、感性を通して入ってきた何かと精神の中に最初からある基本概念のようなものがせめぎあって合一したところに、現象が認識される。客観性の担保も両者の合一にある。

たしかに、身体無しに知性は生まれないとする主張と同じ方向を向いている気がする。

こういうことに素人である自分個人としては、生まれたときは基本の基本のようなものだけがあって、外界からある程度秩序ある感覚が入力され続けること、および自分の動き・働きかけに対してある程度秩序ある変化・応答が外界から返ってくることで、基本的な概念が生まれ、その基本的な概念にまた感覚と自分の働きかけに対する反応が加わってより高度な概念が生まれていく、以下その繰り返し、というのが精神の構造そして世界認識なのだと思っている。そして、客観性が担保されるのは、人の物理的構造が大きくは変わらず、かつ同じような外界に接しているため、そこから矛盾なく構築される概念体系がどの人にとっても同様になるからだと思っている。*1

このような自分の認識と大きく外れるわけではなさそうだが、これ以上は純粋理性批判自体を読んでいないので、何とも言えない。岩波の古いフォントは読みにくそうで躊躇するところもあるが、良い機会なのでぼちぼち純粋理性批判そのものも読んでいきたい。が、そのまえに「存在と時間」が上巻読みかけ、積んであるのも何とかしなければならない。

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*1:ただし、接している外界が違うと違う体系ができるし、あるいは同じ外界に接していても矛盾なく構築される体系が幾つか可能だったりすることもあると思う。