乗車日記

自転車ときのこ

平家物語四 読了

巻十から巻十二、そして灌頂巻まで。一ノ谷の合戦後の平家と後白河法皇の交渉、その間、維盛が那智の沖で入水、義経屋島への奇襲、そして行くところがなくなって船で漂う平家の壇ノ浦での滅亡、そして捕まった宗盛や重衡が切られ、最後に大原に籠もった建礼門院を後白河法王が尋ねる話で終わっている。
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 思い詰めて入水してしまう清経、維盛のような人もいれば、壇ノ浦まで追い詰められていても板東武者は馬はともかくふないくさはたいしたことがないと豪語する上総の悪七兵衛のようなひともいて、さらには平家の別働隊阿波民部重能を口先三寸で言いくるめて降伏させてしまう伊勢三郎義盛、維盛の子、平氏嫡流の男子の命乞いをとてつもない押しで頼朝に認めさせてしまう文覚上人等々、とても多様な人間像が描かれている。
 それにしても安徳帝の最期が、際だって悲しい。「山鳩色の御衣にびんずらゆはせ給ひて、御涙におぼれ、ちいさくうつくしき御手をあはせ、まづ東を伏しをがみ、伊勢大神宮に御いとま申させ給ひ、其後西にむかはせ給ひて、御念仏ありしかが、二位殿やがていだき奉り、「浪の下にも都のさぶらふぞ」となぐさめたて奉って、千尋の底へぞ入り給う。」
 

 ところで、読んでいてだんだん分かってきたが、情けをかけてくれた相手をだまして返り討ちにするような話は、(少なくとも武士の価値観的には)悪いこととして描かれているわけでもないようだ。巻九の越中前司最期では命を助けてくれた越中前司盛俊をだまし討ちにした猪俣の小平六則綱は「その日の高名の一の筆にぞ付にける」と書いてある。恩を受けた人を殺して一番の手柄と評価されたということだから、現代人の感性とはかなり違うようだ。
 巻十にも藤戸の戦いで、佐々木三郎守綱が浅瀬を教えてくれた地元の漁師を、「こんな下郎は他のやつに喋るかも知れない、自分だけが知っているようにしたい」といって刺し殺し、その甲斐あって先陣を切って平家を退けることに成功し、頼朝に手柄を褒められたとある。これも、少なくとも武士達の間では、情報を漏らさないように殺しておいたのは慎重であったというような積極的な意味で捉えられていたのだろうか。それでも、自分としては、書き手(たぶん都の貴族)は少しは非難の意味を込めていたのだと思いたい。例えば佐々木守綱の件では、「かの男をさし殺し、頸かききって、捨ててんげり」と書いてあるが、自分はこの過剰な表現に非難の意図を感じる。