乗車日記

自転車ときのこ

満鉄調査部 読了

これも九月中に読み終わった本。満鉄調査部のことは、話しにはよく聞くが漠然としか理解していなかった。以下、個人的に内容を再確認するためのメモ。
日露戦争の権益のもと1906年11月に満鉄が創設されると、初代総裁の後藤新平によって五ヶ月後には調査部が発足している。後藤の台湾統治経験から調査活動が重視され、特に旧慣習調査はその後の路線拡張の際の土地買収をスムースに進めるのに大変役に立った。これは後の華北分離工作の時の調査でも同様のことが行われるが、この手のことは何でもごり押しというイメージが自分の頭の中にあったので、慣習調査によってスムースに物事が運ぶように準備しているというのは意外だった。
 満鉄設立初期段階が済むと1910年頃には調査部の仕事はあまりなくなっていたが、ロシア革命の勃発によってロシアウォッチャーとしての役割が高まる。ロシアブームによって就職先としても人気が出て、帝大出の人材が沢山集まってくる。このころ、後の超国家主義者の大川周明共産党委員長の佐野学の両方が調査部に入社していたというのは興味深い。
 1927年に政友会田中義一内閣の元、山本常太郎が満鉄社長となり、満州開発の促進による日本の諸問題の解決を目指した経営を強力に進める。そのため臨時経済調査委員会を設立し、交通・港湾といったところから金融、畜産、鉱物資源、水田、土地制度・・・と網羅的に満州の経済状況を調査して、開発計画の基礎情報を集めてゆく。
 1931年の満州事変後は、民生面での協力者として関東軍から白羽の矢を立てられるが、左派的意識の人材の方が多いためどちらかというと非協力。そのなかで石原莞爾と近い関係にあった宮崎正義が満鉄経済調査会を作り、経済建設のための計画案を作成してゆく。この間、満州国の通貨統一等にも関与。さらに宮崎は東京に移り日満財政経済研究会を立ち上げ、1936年には満州産業開発五カ年計画を立案、これをもとに37年1月に関東軍司令部によって満州産業開発5年計画要綱が決定され、満州国政府によって政策化されてゆく。この間、満鉄調査部は農業改革に重きを置いた計画を立案するが、否定され、その一部が農事合作社設立要項に残るのみとなった。
 1935年からは華北分離工作の進展に伴って、分離独立後の統治および産業開発のための華北資源調査班が組織され天津事務所も設立される。日中戦争初期には華北の民政、輸送などに従事する。1937年に満鉄から鉄道以外の重工業事業体が分離されて満業が出来たが、さらに鉄道事業華北・華中への進出も排除されてしまう。松岡総裁は調査部の拡大を拡大し、それを満鉄の使命とする方向に舵を切る。
 しかし、そこで行われた支那抗戦力調査や日満支ブロック・インフレーション調査が日本の戦争継続能力に疑問を投げかけると、軍部による制裁として関東軍憲兵隊による調査が開始される。コミンテルンとの接触もあり、元々左派思想やそれに近しい人材も多数存在した調査部を叩くのは簡単なわけで、1942年に44名が検挙され、5名獄死、20名が1945年5月に判決を受けている。この検挙によって事実上、満鉄調査部の活動は終焉。取り調べで転向を示すために憲兵隊に誘導されて書かされた手記にあった「合理主義に立脚する限り日本精神を理解することはできない、よって大東亜戦争に関する合理主義的判断が破綻を来したのは当然のこと」云々といった記述が大変気持ち悪い。
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