乗車日記

自転車ときのこ

海のかなたのローマ帝国 読了

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昨年読んだ「新ローマ帝国衰亡史」を執筆された南川先生の本。ブリタニア属州の研究の歴史にかなりのウェイトが割かれている点が特徴的。前半で歴史認識が研究者の生きた時代の社会背景から独立しえないことを論じており、それ故に遠く離れた日本の学者がブリテン島の歴史を研究する意義もあることを述べている。
イギリス人のアイデンティティは古くはゲルマン民族にあり、民主制の元祖とされているギリシャはともかく、ローマ帝国は独裁と政争に明け暮れたイメージで良い印象がなかった。しかし、19世紀に入ってドイツが台頭して対立を深めると、ゲルマンにルーツを求めることに問題が生じ、また自身がインドを植民地化して帝国への道を歩み始めると、その相似性からローマ帝国へルーツを求める動きが生じてくる。そして、ローマによる文明化を肯定的に捉え、それを自らの帝国的支配を肯定する支えに用いることになる。ローマ帝国ブリタニア支配に関する数少ない文献資料はタキトゥスなどと帝国エリート層によって書かれており、当然、ローマによる文明化の意義を肯定的に述べている訳だが、これは19世紀の英国エリート層の心によく響いたことだと思う。
2次大戦後のポスト植民地主義の動きは逆に先住民の立場を強調し、また考古学的な調査が進むにつれて、ローマ化をもっと限定的に捉える動きも起こる。さらには大陸とブリテン島の同根性を主張する上での大きな基礎になっていたベルガエ人の大陸からの移住にも考古学的記録の上から嫌疑がもたれるようになり、ケルト民族という概念自体も怪しいという意見がイギリスでは出されるようになる。これはまたローロッパ共同体に向けた統合の象徴として「ケルト民族」を持ち上げていた大陸側の政治的動きと対立することになる。
まあこの辺り、日本においても2次大戦史を冷静に語り辛いのと同じようなものだろう。また、ローマエリート層の記述の偏向を気にするあまり、一部の考古学者は文献資料を忌避して発掘結果に力点を置くきらいがあるとのことで、著者はこのような歴史学と考古学の分裂に懸念を示している。著者の立場は、文献資料はそれを書いた者の思考体系まで遡って
含めて考慮に入れれば良く、無視するというのは問題であるというもの。
 そして、歴史学、考古学の両方の結果を用いて属州ブリタニアを描写・考察しているのが後半。ヴィンドランダというハドリアヌスの長城近くの要塞から発見された多数の木簡の紹介が印象的だった。全体としては、ローマはブリタニアに植民市や都市や道路は作ったものの、軍事的な活動に忙しく、全土がローマの習俗に染まったというには程遠いということらしい。ローマというもの自体が曖昧な存在であるということも理由の一つ。それにしても、ローマ時代の地名と現代の地名がほとんど一致しないのは驚きだ。僅かにロンディニウムがロンドン、リンドゥムがリンカンとわかるぐらい。でもガリアでも同じようなものかも。それからロンディニウムが植民市でも自治都市でなく、なんの法的地位も持っていなかったというのは驚きだ。属州化の後に交易の中心として自然に発達した都市らしい。
ところで本文中に登場する文献の中でカエサルガリア戦記は何度も読んだ本だが、タキトゥスアグリコラ、同時代史は有名な割には読んだことがない。前者を仕入れようと調べたら絶版だったが、アマゾンのおかげで中古で購入できた。ゲルマニアアグリコラが一冊になっている。ゲルマニアは高校生の時に読んだが、ゲルマン人を引き合いに出すことで、ローマの腐敗を糾弾しているという印象だった。今読むとどんな印象なのか、大変楽しみだ。