乗車日記

自転車ときのこ

太平記三 読了

第三分冊は第十六から二十一巻。全四十巻の半分だというのに、楠木正成新田義貞北畠顕家も、そして後醍醐天皇も死んでしまいました。
玉骨はたとひ南山の苔に埋まると雖も、魂魄は常に北闕の天を望まんと思ふ。
二十代の頃、吉野まで自転車で行って、北面する後醍醐天皇陵を見た時は驚きました。今の脚力ならもっと簡単に行けるはずなのに、最近なかなか遠出ができません。
それはそうと、太平記中で北畠顕家の扱いにむらがあるのが気になります。尊氏の九州落ちにつながる都での戦の時も、登場は華々しいのですが、いつの間にかiいなくなっています。二回目に奥州から攻め上ってくる時も、鎌倉、美濃辺りまでは華々しくて、その後、吉野に行って、河内で戦死するあたりは全く記述なし。奥州勢が機内まで出てきて、中央の政局に関わっているということ自体が日本史上珍しいことだと思うのですが。執筆陣にとっては顕家の立場が異質で書きにくかったのか?あるいは、実際はそれほど影響があるほどのことでもなかったのか?
また時間があれば研究書にあたってみたいと思います。
もう一つ驚いたのが、北国勢の雪に対する強さ。新田義貞たちが越前で戦っているとき、現地の武士たちは、雪が積もっていても吹雪でなければかんじきを履いて長征し、城攻めをしたりしています。凄いものですね。雪の降らない所に住んでいる自分には想像も出来ません。

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