乗車日記

自転車ときのこ

読了 兼見卿記元亀四年三月から四月はじめまで

図書館で借りた兼見卿記*1ですが、そろそろ返さないといけないので、信長京都放火事件のあたりを書き下しつつ読んでみました。以下、そのメモ。

元亀四年(ユリウス暦1573年)

三月六日

島田秀満云く、大樹と信長に雑説の義有り、その御理のため罷り上がるのよし、相い話しおわんぬ。

大樹:将軍のこと。
雑説:ざっせつ。うわさでいいのかな?
御理:おんことわり。道理を通すと云う意味で使われているのか?いわゆるご説明?

三月八日

今度、島田をもって信長より大樹へ御理の義、あい調わず。島田をにわかに下向せしむ云々。

三月十一日

高槻城中において、高山重友が別心。和田惟長すでに生害のところに及ぶ(もう少しで殺されるところだった)。和田天守に引きこもるなり。家中のもの当座の扱いをもって和田城を退く。ただいま伏見に来たるなり。散々に手を負う。存命難し(生きとらんやろ)云々。

三月十七日

在所(吉田郷)の門構以下を普請することを申し付けおわんぬ。(防御施設を強化している)

三月二十九日

武家(信長?)の御所に参る(このときまだ信長はいない)。信長より出張(京都へ出張、つまり上洛)の沙汰。洛中、洛外、以外 ことごとくあわておわんぬ。万里小路惟房、禁中見舞いのよしもうしおわんぬ。禁裏おん築地の内、京中ことごとく小屋をかけ、妻子これあるなり。(御所の塀の中に避難小屋を作っても良かったわけだ。)

曼殊院覚如と御雑談のみぎり、来たり告げて云く(他の人が?)、信長出張の先鋒は粟田口に至る出勢なり。馬に乗せ急ぎ在所(吉田郷)に帰らせしむ(覚如さんに帰ってもらったと云うことか?)。近郷の男女当郷に正体もなく逃げ入る。(吉田郷が信長から保護されていることを知っていたのだろうか?)

大樹(将軍)は御城に旗を上げられ(戦闘意欲を示す?)、御人数ひとりも出さざる勢いなり(一人も迎えに出さない?)。

(信長の)本陣は知恩院に打ち入る。(打ち入るというから無理矢理入っている?)吉田郷は前から柴田勝家に警護をお願いしていて、両人が来て(両人て誰?)、両門を固く番せしめおわんぬ。

未の刻、山岡対馬が来て云く、信長から、(吉田郷は)陣取り以下のことが固く免除されるの旨が、諸陣に申し付けられている、早々に罷り出でて御礼を申し入れるのよし、と申すので、即、山岡対馬を同道せしめ、本陣に罷り出でおわんぬ。奏者、うす木なり(毎回奏者の名前が記載されている。重要情報だったのだろう。次回以降もうまく取り次いでもらう必要からか?)銀子一枚持参。信長対面。在所(吉田郷)の儀、いささか以って別義あるべからず。(少しも違うことはない。つまり信長のお墨付きで安全。)今度、大樹のご所行の沙汰の限りなり。(今回(の上洛)は将軍の振る舞いの裁定をするためだけのものだ。)以下略。

三十日

明智の陣所、鴨なり(下鴨とか上賀茂?)。両種二荷を持ち参りおわんぬ。(両種二荷が何かは不明だが、色々な挨拶の時に毎回出てくる。陣中見舞いの定番があったのだろうか?どうも肴と酒のことらしい。)

四月

四月一日

信長嫡男奇妙へ御礼(まだ元服前ということか)、本陣へ罷り出でるなり。まず島田の陣所へ音信せしむ。両種二荷これ遣る。奇妙へ御礼の義、相談のところ、もっとも然るべくのよし申すなり。島田を同道せしめ奇妙陣所に参る。梶原右衛門尉奏者なり。百疋持参し参る。対面されおわんぬ。

織田三郎五郎、両種二荷持参。入魂なり。(心がこもっているという意味かな?)

反路(帰り道)の刻、島田使者走り来たりていう、信長よりお尋ねの子細あり、早々に罷り帰るべきなり。即、島田の陣所へ罷り向かうなり。島田いわく、信長の御前においての沙汰なり。亡父(吉田兼見の亡父)いう、南都(興福寺)相い果てるの(滅亡する)とき、北嶺(延暦寺)その分破滅するべきなり、しからば王城これ災いか。この義、確かに申すか。直に御尋ねのよしなり。分別せしめ罷り出る可くのよし、島田が申すなり。相意を得るのよし、申しおわんぬ。(整理してからお目見えするようにと島田がいった。相分かったと答えた。)

島田をして同道せしめ、信長に罷り出るなり。即対面ありて(信長が)云う、亡父のこと文學に達し、惜しき人なり。次右のこと(上記のこと)おん尋ねなり。答えて云く、南都北嶺相果てるなら、王城これ祟りある可くのよし、連連申すなり。ただし、書載の文書無き義や(出典がない)と申す。信長、最も奇特なり(それは殊勝である?なにが?)、今度洛中に放火治定まるなり(放火することに決定した)。

(信長の理屈がよくわからない。南都北嶺が滅亡したら、都に災いがあるという話に論拠がないなら、京都に放火しても問題ないといえるのか?そういうことなら南都北嶺に放火しても問題ないと云う理屈ならわかるが。。。どちらかというと次の文にある、禁裏その他の反応の方を問題にして焼いたのではないだろうか?)

次また、大樹の所行のこと、禁裏その他の沙汰(うわさ、評判?)は如何(:信長の問い)。公儀・万民なかなか是非なき次第(仕方がないこと?)のよし申すなり(:兼見の返事)。((信長)今回、将軍が私に刃向かったことを禁裏やその他の京中ではどのように評判しているのか?(兼見)朝廷も京中の人々も、なかなか仕方がないこと(信長さんにそこまでいけずをやられたら刃向かうしかないんとちゃいますか?)と言っている。これを聞いて火をつけることにしたと云う方が、理屈に合う。)

次また諸社濫觴(起源)のことおん尋ね。下界勧請の元由は吉田の斎場(葬儀場ではなくて、儀式の場のこと)の所なり。信長、この表に本意を達せられ、御修理の義申しつけらる可くのよしなり。(なぜここで吉田神社の修理の話が出るのか?将軍側につくものは燃やし、信長につくものは優遇することをはっきり示すため?)以下略

四月二日

禁中より仰下され云く、信長へ御音信(せよ)、女房御文(女房奉書のことかな。朝廷から出す文書形式の一つ)、引き合い十帖、金蘭一巻、早々に持参致すべきの旨、万里小路の使者が持ち来たるなり。(吉田兼見が宮中と信長のパイプの一つになっている。)

御本陣へ持参せしむ。村井民部の少輔に披露しおわんぬ。信長に対面して、おん音問添(なんだろう?音信に添えてあったこと?)の旨、申し入れる可くなり(村井の言葉)。畏きの由を申して、退出せしめおわんぬ(兼見は信長に直接は会っていない?)。このことは、(万里小路の)使者に申し渡しおわんぬ。

四月三日

東の諸卒、出勢し、陣を掃う(はらう)なり。賀茂西京より嵯峨に至るまで打ち回り、在在所所にことごとく放火しおわんぬ。本陣、出勢なきの義。

四月四日

京中西陣より放火。足軽以下□□洛中に入て乱暴。ことごとく放火。二条より上京、一間残らず焼き失せおわんぬ。烏丸町に至る類火(延焼)なり、禁中御近辺なり。等持寺本陣なり。強飯、果子、一両種持参せしめ、本陣に罷り向かうなり。

信長云く、陣中見舞い大切なり。

予、申して云く、禁中類火間近に見申すなり。各手前(みんな?)取り乱す。火の沙汰は及ぶ可らず、自然類火をなすは、(火事になった時は云うまでもなく、延焼しそうな時も)、当所(吉田神社)へ臨幸なす(天皇様に来ていただく)べきか。御意次第、直ちに祗候(しこう)せしめる可く申しいるの旨、申しおわんぬ。(信長様の御命令次第に、私を?天皇様のお側に祗候させます。令の使い方がどうもしっくりこない。せしむより、しますぐらいの意味で使っているときもある?それとも下僕が沢山いて、その人たちにやらせている?)

信長、尤もの気遣いなり、警護の義、村井に仰せつけられるなり。去りながら、祗候せしめてなお申し入るべきなり。(警護は村井に申し付けてはいるが、天皇様のお側に祗候して、警護のことを?申し上げるべきだ。)

予、畏みの旨(かしこまりました)、申しおわんぬ。しからば一人相添えるべし(では一人つけてください)。陣中無案内なり(騒乱中は危険なので)。

信長、近頃、よく申すなり。

うす木(三月二十九日の奏者だった人)を相い添えらる。直ちに禁中に参る。申し入れおわんぬ。公家衆おのおの東の築地の上に板を敷きこれあり。比類なき馳走(働き?)の旨仰せ云々(公家衆の感想?)。
あとより、即、信長おん見回りなり。東の御門を開かれ、祗候せらる。予、参りおわんぬ。女中衆、庭上へ出で、出向えらる。逗留なく、本陣へ帰られるなり。予、直ちに罷り帰るの由、申せられた(信長に?)ので、在所(吉田郷)に帰るなり。しあわせ祝着祝着。夜に入り、焼ける煙やまず。洛中洛外において、町人、地下人、数知れず殺害さる云々

公家衆が警護されてしあわせ祝着祝着と、町人地下人数知れず殺害さるが同居しているのがこの時代の感覚なのだろう。

久しぶりに漢字辞典を引きました。自分が昔ながらの漢字だと思っているものの幾つかは、近字体であり、昔はもっと難しい字を使っていたと云うことを改めて感じました。頑張って読むと、色々わかって面白いですが、大変時間がかかりました。少し慣れたので、他の部分も読んでから返すことにします。

*1:新訂増補版 兼見卿記 第一、校訂 斉木一馬、染谷光廣、金子拓、遠藤珠紀、八木書店