乗車日記

自転車ときのこ

読了、鳥羽伏見の戦い。

各所の戦況の解説をする上で、典拠の原文を引用してくれているので、大変ありがたいです。伏見奉行所を巡る戦いでは、薩摩、会津新撰組の報告が何だかずれていて、同じ事象について述べているのかすらよく分からない。地図上に当時の地形を再現して、辻褄の合う解を見つけてみたいと思っています。
鳥羽街道の戦いの方は、鴨川の土手上に街道があって、1キロごとぐらいに村があり、それを防御拠点として一進一退している様子が分かり、双方の報告もそれほどずれている感じはありません。横大路村から南側では街道東側に沼が広がっていたという報告が多いですが、明治25年の地図では湿田の記号になっています。冬の湿田だと沼同然ということなのだと思います。ただ、葦などの藪が多くてそこに会津の槍部隊が隠れていて奇襲をかけることが多かったという報告はイメージが掴めませんでした。河原には今でも葦みたいなやつが密集して生えているところがありますが、湿田の周りにそんなのがあるのでしょうか?今の区画整理された田とは違うのかな。
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読了後、現地確認のため鳥羽街道で淀まで行ってみました。いつも隣のサイクリングリードを通っているので気づきませんが、街道沿いには古い家が多いです。鳥羽・伏見の戦いの慰霊碑もいくつかありました。
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街道東側の耕作地(今は乾田です)と街道の間にも確かに葦みたいなやつが茂っているところもありました。しかし、昔は沼か湿田だったといわれたら、まあそういう気もしますが、言われないと分からないですね。
それから、淀まで行って気が付きましたが、宇治川の流路は大きく変わっています。昔は競馬場の北側も流れていたので、淀城の守りは堅そうです。
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この辺りで5時をすぎて寒くなってきたので、伏見に行くのはやめにして、阪急の西山天王山まで走り、そこで自転車を折りたたんで電車に乗せて帰りました。
伏見はまた今度行こうと思います。奉行所北側の塀がどこまであったのか、塀から御香宮までの距離、門の場所などを確認したいのです。