乗車日記

自転車ときのこ

慶応四年正月

慶応四年の伏見の戦いの開始直前の状況について、これまで調べたことをまとめてみました。
重要ポイントは奉行所西側の南北の通りの位置と、最大の激戦が交わされた北柵門の位置。この辺りはこれまでの研究でも十分な考察がなされていないと思う。(ただし、京都市住宅局・伏見城研究会による伏見奉行所発掘調査記録に、発掘された臼砲の弾に関する考察があり、そこである程度の考察がなされている。)

まず、京都市住宅局・伏見城研究会による伏見奉行所発掘調査記録によると、奉行所の塀は旧日本陸軍が作った塀(昭和の終わりまで残っていた)よりも9メートル東側に存在していた。すると、現在は御香宮方面から南に下がり右に折れる道阿弥通りは、そのまま奉行所の前を走って宇治川に達することになる。これは慶明雑録の中原猶介覚書(薩摩第一砲隊長の報告書)にある絵図面とも一致し、また天保増補 泰平俯見御役鑑の絵図*1とも一致する。また、中原猶介覚書の絵図にある柵らしき記号から、奉行所を取り囲む道から外に出る口には全て柵があったことがわかり、北柵門と言えるのは奉行所北西角のそれであると推測される。これは中原猶介覚書の戦況報告と会津砲隊戊辰戦記の林砲隊の記録とも矛盾しない(林の隊が柵門を飛び足した途端に、中原が砲撃していることをお互いに記述している)。その他の伏見町内の道路は鉄道ができたことを除けばほとんど変化はないと考えられる。(京町通りには弾痕の残る家がそのまま建っていたりする。)

つぎに部隊配置の再現を検討する。まず新政府側は中原猶介覚書の絵図、および慶明雑録の記録でほぼ明らかになる。旧幕府側は、会津砲隊戊辰戦記に林砲隊と白井砲隊の詳しい記録がある。また林砲隊の記録に、旧幕第7連隊が左で連絡を取り合いながら戦っていたとある。新撰組永倉新八の記録によると奉行所内にいたようだ。会津藩については詳しい戦死者の記録があり、これによると砲隊以外の刀槍隊4隊のうち少なくとも3隊、そして佐川官兵衛の別撰隊が戦っていたことは間違いない。これらの隊は十二月から伏見に入っており、本願寺会津藩の宿舎になっていたのでそのあたりにいたと思われる。

また旧幕府歩兵隊については軍配書(進軍の計画書)なるものがあるが、全くその通りに進んでいないのであまり当てにならない。薩摩側の諜報の記録(中原猶介覚書他)によると、小笠原石見守(フランス伝習隊第一大隊指揮官)と横田伊豆守(歩兵第4連隊)、新撰組奉行所内にいたということだ。また会津白井砲隊の記録に、幕府歩兵の一隊が高瀬川付近にいた(だたしすでに林隊が撤収した頃なので、日が変わる前ぐらい)ことが記されている。また、野口武彦鳥羽伏見の戦い」で引用されている長州側記録(林友幸「維新戦役実戦談」)によると長州隊は正面の敵と銃撃戦を行っており、また「相手の兵隊が騒動するばかりで遅れて出てこない、士官だけが出てくるが撃たれてしまう」と述べている。このことから、長州隊の相手は会津の刀槍隊(そもそも鉄砲を持たないし、恐れて兵が出てこないなどということはあり得ない)ではなく、幕府歩兵だといえる。すると、前述の第7連隊、第4連隊、伝習隊以外にも幕府歩兵隊はいたはずである。前記の軍配書によると、伏見へは第12連隊も進軍することになっている。また第11連隊は黒谷に行くことになっているが、これは伏見経由になるので、この隊が伏見にいてもおかしくない。

これらを考慮して、部隊配置と地形の再現を試みたのが次の図である。元地図として立命館大学アートリサーチセンターの近代京都オーバーレイマップを利用した。

また、最も重要な参考資料として、二つの図を示しておく。国会図書館デジタルアーカイブにある慶明雑録の24巻目の中原猶介覚書の絵図である。1枚目が増援が来る前の配置、2枚目が増援が到着して配置換えした後の配置図である。