乗車日記

自転車ときのこ

花筏

疏水で花筏を見て、金戒光明寺会津藩のお墓にお参りして、吉田山で本を読んで、にしむら酒店で日本酒を買って帰りました。
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真如堂の石碑。たてかわさくら。今週一週間くずし字の勉強をしていたら読めるようになっていました。嬉しいです。
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昼から山本覚馬の伝記と、お金の向こうに人がいるという本を読んでいました。
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伏見

土曜日は自転車仲間と早朝から伏見の桜を見て、その後、トレイルライド。
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帰宅して、御昼寝して、近所の京都市立図書館に、取り寄せてもらっていた資料を借りに行きました。
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戊辰戦役史 上下、新撰組資料大全、浪士文久報国記事の4点。めちゃくちゃ重くて、10kgまでOKのブロンプトンのフロントバッグが役に立ちました。
写真中の他の資料は別の図書館で借りたものか、自分で買ったものです。
この後、資料を読むのが面白くて、気がついたら朝の4時。夜更かしをしてしまいました。頭が冴えて眠れないので、お風呂に入り、それから安物ワインを温めて蜂蜜を入れ他やつを飲んで、布団に入ったら流石に眠れました。

今日は、10時に起きて、また資料を読み込み。3時半頃、流石に体に悪そうだと思って、日本酒を買いに伏見に行くことに決定。道を覚えてしまったので敷居が低いです。実際自転車で30分ぐらいしかかかりませんし。ぶらぶらと伏見に入って、最初に目についた酒屋でお酒を購入。福翁。それから先日飲んで美味しかった神聖のお米の違うやつを一本。
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それから伏見奉行所跡と御香宮の間あたりを調査。昨日読んだ「伏見民政史」で奉行所北辺の地形を見ていたのでそれを確認。それから伏見団地に残る石垣を見ていて、京大デジタルアーカイブの維新直後の伏見奉行所の塀の写真とそっくりではないかと閃く。実際写真と照らし合わせると石の積み方が同じです。
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3枚目の写真は伏見奉行所写真 京都維新史跡写真帖 、京都大学貴重資料デジタルアーカイブ、44.伏見奉行所址からのコピーです。利用規約には参照基を明記することで2次利用可能と書いてありました。https://rmda.kulib.kyoto-u.ac.jp/item/rb00013761#?c=0&m=0&s=0&cv=44&r=0&xywh=-1%2C-139%2C3072%2C2325

これにより現在の伏見稲荷団地の南東角が明治維新直後の塀の位置と同じであることを確認。発掘後に復元した可能性もありますが、ここまで石の積み方を再現するのであれば、場所は同じでしょう。確認のため発掘記録も取り寄せてみます。

この塀の南北のラインが特定できれば、その他の絵図から北柵門の位置が特定できます。そして北柵門の位置から会津林砲隊の配置場所が確定できます。すると「藪の中」状態の各種報告・記録を整合性のある形で再現できるはず。会津林砲隊、薩摩第一砲隊、長州隊がそれぞれ同じ場所の戦況について報告しているようなのですが、言っていることがずれていて、そのままではよくわからないのです。

ところで家の近所の枝垂れ桜もきれいでした。
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轀輬車の車輪について

日曜日の兵馬俑展でみた轀輬車の車軸と車輪について考えてみました。
どこまでが出土品を再現したもので、どこからが復元時に補完したものか知りませんので、以下は戯言です。

まず、車軸は車体にがっちり固定。サスペンションはなし。車軸は回転せず、車輪の羽生と車軸の間で滑って回転する仕組みと思われます。

鉄製の長い車軸を作ると無駄に重くなるでしょうし、技術的にも難しいでしょうから、車軸は木製でハブと接する部分に金属製のリングが取り付けてあり、それとぴったり合うようにハブの内側の穴が作ってある。両者の間で滑って回る。もちろん油を沢山いれておく。ような感じですかね。

秦帝国当時の金属の加工精度的に、車軸側の支えとハブの穴をぴったり合わせることができるのかという疑問はありますが、青銅で大きめに鋳造してから、現物合わせで削っていけば可能な気がします。旋盤はなくてもロクロ的なものはあったでしょうし。
ハブが車軸長手方向に広がっているのは、ガタを防ぐためだとおもわれます。軸受の精度が多少悪くても幅広いハブの両側2点で支えればガタはかなり減らせます。

スポークは非常に本数が多く、それを中心部でハブに接続するため、スポークが途中でひらぺったくなっています。単に細くすると剛性が足りないので横に広げているわけです。ハブの直径を増やすことでも対処できそうですが、無駄に重くなるのを避けているのか、あるいはスポークの車軸長手方向の横剛性を保ちつつ、車輪回転方向の剛性を減らすことで柔軟性を確保して地面からの衝撃をある程度緩和できるように設計されているのか?

これを実際木でどうやって作るのか?

  1. 車輪にスポークを全部差し込んでおく。(車輪には穴を開けておく。)
  2. ハブには車軸長手方向に割と深い切れ込みがある。
  3. スポークのハブ側を車軸の外側から、ハブの切れ込みに差し込んでいく。
  4. ハブの外から別パーツで押さえる。

という感じですかね。通常スポークは木製でしょうが、案外鉄で鍛造できたかもしれません。剣と同じ形に見えます。でもこの車輪のスポークは自転車と違って圧縮方向で支えるので、木製の方が適している気もします。

以上、復元模型についていろいろ考えてみましたが、時間があったら実際の出土品の情報をもっと調べてみたいと思います。