乗車日記

自転車ときのこ

ディスコルシ 読了

先日、昔も今もを読んでいてマキャベリが読みたくなり、今年の夏に買って積んであったのを思い出して読みだした。リウィウスの書いた共和制ローマの歴史を紐解きつつ、自分のフィレンツェ共和国外交官としての経験をもとに、当時のイタリアの混迷を嘆きつつも社会のあるべき姿、政治のあるべき姿を模索している。
 人はそれほど変わるものではないので、古代の歴史を紐解くことで現代に対する回答も得られるはずという考えが中心にある。当時のイタリアの堕落ぶりに嫌気がさして、ローマ共和国をかなり理想化している感はあるが、それもある程度は自覚しているようで、なぜ昔のことは理想化されるのかを論じた章もある。理想・理論が現実よりも先に来る点は同時代人からも批判が寄せられていたらしいが、今の日本にも当てはまると思える部分もあり、人間の進歩というものを考えさせられる。いわく「人々が特定の市民に抱く憎しみに合法的にはけ口を与えるように配慮した法律が必要である。」いわく「選挙の時に首長の手腕をこき下ろして引きずり落とした人物が、いざ首長になってみると事態の真相を直接目にしていかに事態の収束が難しいかを理解できるようになり、彼らの考えも行動もたちどころに変わったものになる。」
 また宗教に対する冷静な見方が興味深い。いわく、「理屈抜きで何か皆が信じていれば、統一感が生まれ、力を合わせて物事を成し遂げるのはやりやすい。そのため、為政者達は自分達も心から宗教を信じるようにするべきである」と。また当時のイタリアの堕落が一つには宗教をだれも信じていないからであり、その原因は信じてもいないのに宗教者の振りをしている法王庁と坊主たちにあると断じている。法王庁を丸々スイスに放り込んだら、スイスは大混乱になって滅びるだろうとまで書いている。まあこれで火あぶりにならないのだから、フィレンツェはよいところだな。
 全体的には長い時間をかけて書かれたものという印象があり、本としては統一感がない。前半の調子と後半の調子がずいぶん違い、何度も推敲して構成を考えたという感じではない。また、自分は塩野七生の「チェーザレボルジアあるいは優雅なる冷酷」から入り「わが友マキャベッリ」を読んで、君主論を読み、これが10年以上かかって頭に刷り込まれていたので、今に至ってディスコルシ読んだの共和制理想主義には戸惑った。チェーザレを礼賛していたものが、カエサルを僭主として批判するのはどういうことだと思ったが、あとがきによると君主論の方は就職用の論文でこちらが本音と言うような解釈もあるらしい。まあ、そもそも本人が心の底をさらけ出すのは交渉上、一番まずいことだと書いているぐらいだから、素直に読んではいけないのだろう。
 あと、僭主という用語、日本ではあまり歴史上にそういう例がないので、なんだか感じがつかみにくい。Wikiによると王朝の確立に失敗したものが僭主といわれ、成功したものが君主になるらしいが、これも変な話でどこかおかしい。ギリシャ人の用語だろうからプルターク英雄伝でも読み返してみよう。