乗車日記

自転車ときのこ

兼見卿記

昨日の記事にあった兼見卿記が中央図書館にあるらしいので、早速見に行った。少し雨だがママチャリで行く。中央図書館は初めて。カウンターで頼むと一瞬で書庫から本が出てきたのには驚いた。優秀な司書さんがそろっているようだ。

問題の津波は1586年とのことだから、天正十四年。しかし兼見卿記は四巻のうち二巻までしか置いておらず、天正十二年で切れている。同じく記述があるというルイスフロイスの日本史も調べようとしたが、こちらは中央公論社版の当該巻が、昨日貸し出しされていた。既に動いている人がいるようだ。東洋文庫にも日本史があったと思い、覗いてみたがこちらは第一部のみの翻訳で、やはり天正の中頃で切れている。知らなかったが日本史は第一部、第二部、第三部とあるらしい。とりあえず貸し出し中の日本史を予約してこちらは一旦中断。

折角来たので、吉田神社の節分祭がこの頃やっていたのかどうか調べてみようと思い、各年の記事をチェック。

元亀三年十二月二十四日(1572年ぐらい)
 節分也 當社有参詣
 今夜大祓 内陣修業如常
 家中打大豆 里村名代令上洛也

天正三年十二月二十七日(1575年ぐらい)
 節分也 大祓修業如常 新暦書之

天正七年正月一日(1579年ぐらい)
 節分也 入夜大祓 内陣修業二座

天正八年正月十一日(1580年ぐらい)
 自洛中洛外 社参数輩

天正八年十二月二十三日(1580年ぐらい)
 節分也 當社参詣数輩
 大祓内陣修業如例年 今朝煤掃

天正十年正月四日(1582年ぐらい)
 雨下 節分也 今夜大祓

天正十一年正月十四日(1583年ぐらい)
 節分 天晴 暖気也
 當社参詣不知数 繁栄也
 當年星七体出来 今夜内陣供養也

天正十一年十二月二十五日(1583年ぐらい)
 節分 天晴 暖気
 當社参詣数輩

なんだかあっさりした記述だが、洛中洛外から参詣者があると言うことだから、今と同様に賑わっていたのだろう。豆まきは家内行事だったようだ。

その他いろいろ面白い記事があった。例えば、
天正元年七月十四日(1573年ぐらい)
 吉田山に明智光秀の進言で信長の居館を作ってはどうかという話が出る。
 柴田勝家羽柴秀吉丹羽長秀らがぞろそろと場所を見に来る。
 見聞の結果、不適当と言うことになる。祝着々。

もしも吉田山に信長の居館が出来ていたら、後に光秀に焼かれていたのは間違いない。良かったですね。

いろいろ見ていたら三時間ぐらいたってしまった。帰りにいわしコーヒーに行くがなぜか休み。焙煎機が直ったと聞いて楽しみにしていたので残念。