乗車日記

自転車ときのこ

平家物語二 読了

巻四から巻六まで。清盛が高倉院と厳島に行っている間に以仁王が挙兵するが、宇治であえなく最後をとげる。その後、福原遷都。令旨を受けた頼朝も挙兵、富士川では平家は戦わずして破れる。その後、京都に戻る。以仁王に協力した南都を攻め、大仏殿炎上。そして清盛の死まで。
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まあ全体のお話は一応知っているところ。ローカルな細部で、2つほど目を引くものがあった。
まずは、以仁王園城寺に逃れ立てこもっているあたりで小関越えと大関越えという記述があった。小関越えは山科の北の奥の藤尾と三井寺あたりを結ぶ道。山科に住んでいた頃からよく知っているところだ。しかし、なぜ小関越えなのかは知らなかった。実は、東海道、つまり現在の一号線の方が大関越えと呼ばれていて、これと対になって小関越えがあったとのこと。これで、長年引っかかっていた疑問が氷解した。また、以仁王園城寺に逃れる際に如意ヶ嶽を通る山道をつかっているのも、納得が行った。確かにあの道なら、関所等に引っかからずに三井寺に入ることができる。
 私の印象では、太平記にくらべて平家物語の方が京都周辺の道や山道の記述が正確な気がする。太平記ではこれはあり得ないというような道を使っていたりして、実際に歩いたことがないような感がする箇所が幾つかある。例えば巻十五、顕家の増援を得て官軍が足利方から京都を取り戻すあたり、「山徒は万余騎にて竜華越えを回って鹿谷に陣を取る」。竜華越えは左京区の北の果て大原の北にある途中越のこと。比叡山から素直に尾根を南に下ってくれば1時間で鹿ヶ谷なのに、そんな遠いところを回って鹿ヶ谷に入るわけがない。東坂元から来るにしても、これはない。
 もう一つは、安祥寺の実玄阿闍梨というひとが、平家調伏をしたという記述。山科の安祥寺は近くをよく通っていたので知っているが、そんなに古いお寺とは知らず驚いた。
 それから興味深かったのが、平等院に逃れた以仁王を追ってやってきた平家の軍勢が宇治川を渡る話。二万八千騎が馬筏を組んで渡ったところ、水がせき止められて、下流側を渡った雑人は膝より上が濡れなかったと書いてある。現在の宇治川の水量を考えると想像しにくいが、二万八千は誇張にしても大量に馬が渡るとそんなこともあるのだろうか?誰か実験して欲しいものだが、無理だろう。シミュレーションなら可能かも知れない。
 所で、話は少しずれるが、今日の新聞に、高野山の霊宝館副館長さんが講演で、高野山が1200年続いた理由の一つはの非武装中立と述べていた、と書いてあった。確かに、叡山も、園城寺も、南都も、武装して主張して、延々と紛争当事者として戦って、あげく焼けていますね。たぶん高野山の僧がすばらしかったというより、高野山は政治中心から遠かったからそういう動機がなかったのだと思います。そのあたり、開祖がそこまで見通していたと言うことでしょうか。地政学な状況が集団の性格を決めることまでも。。。すみません、単なる想像です。


 次の分冊はいよいよ源平合戦木曽義仲上洛から一ノ谷合戦あたりまでのようです。すでに購入してあるので、どんどん読んでいきます。