乗車日記

自転車ときのこ

意識は実在しない 読了


知性は環境に存在するというアフォーダンス理論の中心とした心の分析に関する内容。知性が形成できるのは外部環境に秩序だった法則があるからであるというアフォーダンス理論の主張は自分もそのとおりだと思っている。動物が外界に働きかけたときに、動物にとって有用な外界の反応をアフォーダンスといい、自分の周りにどのようなアフォーダンスがあるかを知覚していくことで知性が形成されるというのがアフォーダンス理論の大雑把なところと理解している。最近のロボット理論においてはそういうことの出来る身体があればロボットにも意識が生じるのではないかとも言われている。
 しかしこの本では、自己というものは知性の形成時のみならず、常に外界も含めた形で存在しているので、心の動きは脳よりもむしろ自分が利用できる道具や自分を制限する社会規範等々の環境に規定されていると主張している。私の考えでは、この点も含めて本書は環境の秩序をコピーすることで一度脳に形成された知性の重さを軽視しすぎていると思う。確かに自分の脳だけで自己が出来ていると考えるのは短絡的過ぎ、外部環境も含めて自己が形成されおり、明確な境界があるわけではないているのは確かであるが、脳内に蓄えられる情報は相当のものがあるのでやはる脳が自己というシステムの中核をなしていることは間違いない。しかし、自己が形成される時点ですでに社会的な規範が働いているのは間違いないことであり、その意味では環境に規定されているというのは正しいと思う。つまり時系列的な議論をもう少し入れてほしいところだ。
 一方、本書のタイトルにある意識は実在しないという主張は、クオリア理論の明快な否定であり、その点に関しては同意できる。ここでいう意識というものは外界を認識する機能のことではなく、脳の中にいて外界のことを映画のスクリーンに写るシーンを見るように見ている内なる存在、あるいは主観、あるいは精神と肉体の二元論に基づく精神といったものである。クオリア論者は言ってしまえば物理世界とは別に精神世界あるいはイデア界のようなものが存在し、その二つが人間の脳において初めて交差すると主張している。たとえば甘さというものが精神世界に存在し、精神が脳という物理実体に宿っているおかげで物理世界の何らかの事物を精神世界の甘さ結びつけることが出来るといった具合である。
 本書では、あらゆる知覚というものは現実世界に存在する情報であると言っている。まあ、脳を含めた身体にそれが何からの刺激として伝わっているだけということで、そのままである。面白かったのは現実世界が本当に存在するかという懐疑論に対して、知覚される世界に対してこちらから働きかけを行った際の多面性、整合性、連続性といったことが世界の実在を裏付けているという議論だ。まったくそのとおりだと思う。知覚される世界がでたらめであれば世界の存在など確信できない。デカルトのego cogito, ergo sumなどは、思うという過程自体が物理実体に依存しているのでそもそもおかしいと喝破している。自分の専門とする物理学の分野でも計算や情報というものは物理実体なしに存在できる抽象的なものではなく、物理実体があってはじめて存在できるものであることが常識となっており、その意味でもデカルトの主張はおかしい。
 また本書の中盤でなされる、脳性まひや自閉症の当事者による研究の紹介は大変興味深かった。自閉症の綾屋氏の報告では外界の情報が等価に大量に入ってき過ぎて、全体が見えなくなるという。運動に際しても動きにフィードバックすべき情報の弁別が間に合わず、調整が難しくなるという。脳性まひの場合は、身体が過剰に動いてしまうため、環境の際に細かく対応できなくなっているという。これらの研究から著者は、外界の大量の情報から全体像を抽出し、かつその差異に細かく対応してフィードバックを掛けることが出来て初めて、外界との一体感が得られるという結論を導き出している。確かにそうなのだが、情報の抽出統合に何が関与しているのかといった議論に踏み込んでほしいところだ。その点、受動意識仮説のほうが自分には納得できる。
 次の自由に関する議論はどうだろうか。自由意志が幻想であるというベンジャミンリベットの実験結果に対する批判の最初の部分は納得できる。これは、決意の瞬間などというものはもともと存在しないので、そんなものを計測して運動の準備の時刻と比較しても仕方がないというものである。脳は連続的に情報を受け取って連続的に動いているので、どこかの瞬間に身体を動かすことを決めたりはしていないというものである。そうではなくて、外界の情報に対してどのように反応するかを前もって時間をかけて訓練しておくことこそが意思であり、その反応のやり方を複数の選択肢の中から選ぶことが出来ることが自由であるというのが本書の主張である。
 しかしどうだろう、自分のナイーブな考えでは複数の選択肢があったとしても、そのどれを選ぶかということ自体も連続的な外界の情報と脳の動きとで決まっているのだから、やはり自由意志は無いように思われる。量子力学的には脳の発展も確率的であるから決定論的未来というのとは無いので、それを自由と幻想しているのではないかと思う。多世界解釈が正しいのであればそれでよいのだが、アバラノフボームのポストセレクションについての主張が気になる。世界の終わりにポストセレクションがあるのなら、それによって未来は決まっているということになる。現実世界そのものが知覚と考える哲学者が量子力学にもとづく議論をもっと展開してくれればありがたいのだが。