九州旅行2日目。福津の宿を出て博多へ。文永の役で元軍が占拠した麁原山を見てから、生の松原の元寇防塁。唐津まで電車。東松浦半島を横断して鷹島へ。風力発電所が多い。途中、昼食は寿司。松浦市埋蔵文化財センターで引き上げられた元の戦艦の部材や「てつほう」や鉄兜を見る。戦艦の隔壁材や碇だけでも恐ろしい大きさです。センターの人の話では、今回の台風はそれほどでもなかったとか。弘安の役の時の台風は有史以来3番目に大きい台風だったらしいですが。棚田も二箇所見学。稲が倒れてましたが大丈夫かな。玄海原発を見つつ、名護屋城へ。山城の中とは思えないほど広い。本丸跡から壱岐と対馬が見えたのが印象的でした。クビライ、秀吉、まあ独裁者と言うのは碌なことがないですね。最近ではプーチンも。まあ参謀が勝手に戦争を始める国も大概ですが。玄海灘に沈む夕陽は綺麗でした。ここで7時前。鬼こぎで唐津まで走りました。鷹島の道の駅で仕入れた鮪中落ちとほっもっとのご飯で鮪丼。鷹島は鮪や虎河豚の養殖が盛んだそうです。
東側から見た麁原山。
麁原山頂上。
生の松原の元寇防塁。上部は修復時に積み増ししたもの。
こちらが原型に近いのかな。
弘安の役(二度目の元寇)の最終局面。台風通過の後、蒙古軍を追撃するために出発する竹崎勢とそれを防塁の上から見送る菊池勢。中央の赤い袖付きの鎧を着て、薄茶色の馬に乗っている人物が竹崎季長。服部英雄氏の本によると、ここから船に乗って鷹島に行くは遠すぎるので(40時間はかかる)、(通説はおかしくて)攻撃対象は博多湾の志賀島にいた東路軍ではないかとのこと。
内側からだとこんな感じに見える。
元の大型戦艦が迫ってくる様子。ただ、水深の関係でそのまま上陸はできないので、小舟に乗り換える必要があった。元軍(東路軍)は博多湾一帯に構築された防塁を見て独力での突破は難しいと考え、志賀島に立て籠って江南軍の到着を待った。しかしそれが中々やってこず、2ヶ月経って台風シーズンになってしまった。
九州学研都市駅から唐津へ。糸国博物館に行く暇がなかった。
大浦の棚田。先日の台風で稲が倒れている。大丈夫だろうか。
風が強い地域なのだろう。風力発電所が多数ある。
入野のひぜん玄海寿司で昼食。
大きな橋を渡って鷹島へ。
橋の鷹島側のたもとに、道の駅がありました。今日はマグロ解体の日。帰りに中落ちを買って帰りました。鷹島は鮪や虎フグの養殖が盛んだそうです。
ここが神崎海底遺跡から引き揚げられた遺物を展示しているセンター。
てつはうの実物。陶器製なのになぜてつはう?中には鉄片などが入っていたらしいので、そこから名前が付いたのかな。
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蒙古軍の鉄兜。引き揚げられたもの。
蒙古軍の鎧とくさび帷子は、レプリカの参考品。
漆の耐久性はすごいです。
匙やベルト留めなど。これも引き上げ品。
中隊長ぐらいの指揮官の印鑑。
アンゴルモア元寇合戦記作者のたかぎ先生も来訪されたようです。
平成27年に見つかった2号沈没船の様子。これから推定される船の大きさは全長20メートル、幅6~7メートル。1号船はさらに大きい。
元の船の隔壁。大きい。6~7メートルはありそうだ。
碇。これも大きい。
この碇、蒙古襲来絵詞の絵とそっくりです。これ一つとっても、蒙古襲来絵詞はかなり現実に即して描かれているのだろうと想像されます。
https://catalog.lib.kyushu-u.ac.jp/opac_detail_md/?lang=0&amode=MD820&bibid=411726
碇の推定復元図。
ここに元の船が集結していた。
さて、既に4時過ぎ。計画より1時間遅れていますが、肥前名護屋城に向かいます。
浜ノ浦の棚田。
玄海原発。意外なぐらい一般道の近くにある。
6時過ぎぐらいに名護屋城に到着。資料館は既に閉まっているので城に向かいます。よくわからずに搦手からはいってしまいました。
本丸跡。山城の中とは思えない広さです。
夕陽が美しい。
6時45分ぐらいに城を出発して、鬼漕ぎで唐津へ。確か日の入りは7時半のはず。
ホテルの近くでほっともっとを見つけたのでご飯だけ買いました。140円。醤油とワサビも買って、鮪丼の出来上がり。