乗車日記

自転車ときのこ

平家物語三 読了

巻七~九。義仲上洛あたりから一ノ谷まで。
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敦盛最期は地元だけあって、高校か中学の教科書で読んだ覚えがあります。須磨あたりの浜でしょうか、熊谷次郎直実が、戦い破れて海に逃れ行く平家の武将に卑怯だぞかえってこいと呼びかけて、帰ってきたのを組み伏せてみると自分の息子と同じぐらいの年。とても殺すことはできないと思うのですが、見ると後ろから自分の味方が沢山集まってきていて、たぶん離してやっても殺されてしまう。せめて自分の手で。。。「あはれ、弓矢とる身ほどくちおしかりけるものはなし。武芸の家に生まれずば、何とてかかる憂き目をばみるべき。情けのうもうち奉るものかな。」とかきくどき、袖をかほにおしあてて、さめざめとなきゐたる。
 ところで気がついたのですが、巻七~九だけで敵に情けをかける話がこのほかにも沢山あります。

  1. 巻七、篠原合戦:平家方の高橋長綱が義仲方の入善行重を助けて、逆に殺される話。
  2. 巻七、維盛都落ち:摂政藤原基通が平家福原落ちの途中で引き返してしまったのに、平家の人々が座視した話。
  3. 巻七、聖主臨幸:平家都落ちに際して、関東が本拠地の畠山重能、小山田有重、宇都宮朝綱らを本国に返してやる話。
  4. 巻七、一門都落ち:平家一門の中で母が頼朝を助けた関係で関東に縁があった頼盛が都に戻るのを宗盛が放置する話。
  5. 巻八、瀬尾最期:北国の戦いで捕虜になった平家方の瀬尾太郎兼康を、義仲が惜しんで命を助け、倉光三郎成氏に丁重にもてなさせるが、瀬尾は倉光の隙を見て酔わせて殺してしまう話。
  6. 巻九、越中前司最期:越中前司盛俊が猪俣則綱を助けてやるが、これも逆に殺される話。

 これらのエピソードは何を伝えようとして入っているのか気になります。現代人としては、結構優しい心の人もいたのかと感じたりしますが、それにしても恩を仇で返す話が多いように見えます。平家物語が成立した頃の人達にはどう感じられていたのか。脇が甘いといけないというメッセージなのか、それとも私が受けた恩よりも主従関係の方が優先されると言うことなのか。詳しい研究書をあたってみたいところです。
 あと、気になったのは都の人々が義仲を笑いものにしすぎではないかという点。巻八、猫間では、猫間邸というところにすんでいる中納言光高というひとが、義仲を訪ねて全く話がかみ合わず、興冷めて帰ってしまう話と、義仲が牛車に乗ったときに御者に馬鹿にされる話が載っています。まあ読んでいて面白いのですが、京都のしきたりを知らないというだけで馬鹿にするのは、ちょっと意地が悪すぎる気がします。その話の中で、ヒラタケの汁が出てきました。ひらたけという名前は王朝時代から使われているのですね。ちょっと感動しました。
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 それから、意外にも巴御前の出番は殆どありませんでした。そもそも、義仲最期の章にだけ出てきます。なんだか東国の猛者をねじ伏せたりしてもの凄く強いのですが、途中で義仲に言われて離脱します。自分の記憶の中ではもっと活躍していた気もするのですが。。。義仲最期では、むしろ乳母子の今井四郎に重きが置かれています。なにせ義仲の台詞が「義仲、六条河原でいかにもなるべかりつれども、汝がゆくへの恋しさに、おほくの敵の中をかけ割って、これまではのがれたるなり」です。なんだか唐沢寿明江口洋介の白い巨頭を思い出しました。