日曜日は奉行所跡の調査をするために伏見に行ってきました。川島から本願寺西山別院の横を通って下津林、上久世と昔の道をできるだけたどりました。下津林は現代の主要道路から見ていると何でもない感じですが、昔の村の中を通る道沿いは立派な家がたくさんあって驚きます。、そこから桂川右岸を南下して祥久橋(これは近代の橋)を渡り、また小枝橋を通って鳥羽街道。
小枝橋から赤池(久我橋)までの鳥羽街道と鴨川の土手の間は、明治の地図では低くなっていて池などがあり、鳥羽伏見の戦いの時の記録では沼もあったということです。しかし、現地に行くと鳥羽街道の西側は落ち込んでいなくて、鴨川土手に向かって連続的に上がっていく感じ。明治の地図がおかしいのかなと思っていたのですが、赤池の南側の土手と鳥羽街道の間を観察していてあることに気が付きました。
低地を土で埋めて鳥羽街道と同じ高さにする工事をやってます。多分、赤池の北側も同じような工事がなされたのでしょう。これで一つ疑問点が解消。明治の地図に従うことにします。同様に明治の地図では横大路村の鳥羽街道の桂川の家と桂川の間に土手がないけれど本当なのか?というのも疑問でした。これについては、羽束師橋の歴史を調べていて、明治41年に代改修があったということを知りました。多分その時に裏の土手ができたのでしょう。
https://www.city.kyoto.lg.jp/kensetu/cmsfiles/contents/0000023/23346/hazukasibasi.pdf
そもそも、羽束師橋も久我橋も桂大橋もなかったみたいですし、久世橋も舟橋と渡しの併用だったとか。
https://www.city.kyoto.lg.jp/bunshi/cmsfiles/contents/0000150/150252/08minami-kaisetu.pdf
意外に鳥羽街道から西国街道方面に迂回するのは難しそうです。
それで肝心の伏見。横大路を自転車で行くと10分もかからず高瀬川に至り、それを越えると伏見です。この高瀬川も幕末の頃より西側に移っています。
さらに進んで奉行所跡。西側の壁は江戸時代の場所に一部復元されているようです。
また、南の方は礎石が残されていました。
しかし西の壁は、陸軍がもとの壁の西側に新たな壁を作ったらしいので、明治22年の地図がどちらを示しているのかよく分かりません。また北側と東側はすっかりなくなっていて良くわかりません。
それはともかく、奉行町北側は東に向かって上がって行く斜面に対して、敷地を水平にするためかなり堀込まれているのが確認できました。これは大正の地図でも確認できるのですが、明治22年の地図ではよく分かりません。(近代京都オーバーレイマップ: 立命館大学アートリサーチセンター,https://www.arc.ritsumei.ac.jp/archive01/theater/html/ModernKyoto/)、元から掘り込まれていたのか、明治の工兵隊が作ったのか、どちらなのでしょうか。まだ調査が必要です。
それから奉行所の北側の壁がどこにあったのかが知りたいと思い、うろうろしていると、北西の角あたりに壁の残りらしきものを見つけました。
この折れ曲り部分、泰平伏見御役鑑(1841)に描かれた西側壁のやや北側にある出口付近とよく似ています。
https://blog.goo.ne.jp/046711/e/e80a1c688f5eddaad380fb48b396736c
この折れ曲り部の少し北に北側の壁があったと考えて良いと思います。会津軍が北の出口から出撃したという記録がありますが、多分この出口ですね。御香宮側だと門を出た途端に撃たれるのでどうも変だと思っていたのです。
https://hananomichi.at.webry.info/201804/article_4.html
こちらの概況図ともよく一致しています。(この概況図の出典はまだ調べきれていません。)
この後、御香宮に行ったら、薩摩軍の砲兵陣地は境内ではなくて、東側の丘陵にあったと書いてありました。その点もこの概況図とよく一致しています。これまで読んだ何冊かの本では境内に砲を設置と書いてありました。しかし、現地に行ってみると、そもそも境内からでは奉行所の方は見えないです。
今はJRが通っているその東側の斜面にあったとするのが合理的。この概況図、意外に正確そうなので、出典を明らかにして利用して行きたいです。
後は新撰組が超えて出撃したという奉行所の土塀というのがどこなのか、これがまだ分かりません。
それはそうと、だんだん寒くなってきたので、酒蔵巡りに切り替えて、3本ほど日本酒を買って帰宅。
全力で漕ぐと40分ほどで家につきました。伏見は意外に近いと分かったので、また行こうと思います。